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ぽわぽわログ

軟派なライフログ

水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書、2014年)

資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺(=フロンティア)」を広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステムである。

 

現在は中世から近代への転換期に匹敵する、500年に一度、ないしは13世紀に利子率がローマ教会によって公認され、資本家が誕生して以来の大転換の時期である。

 

利子率の低下が重大事件であるのは、金利は資本利潤率とほぼ同じであると言えるから。資本を投下し、利潤を得て資本を自己増殖させることが資本主義の基本的な性質である以上、利潤率が極端に低いということは、既に資本主義が資本主義として機能していないという兆候である。

 

現在、先進各国で超低金利の状態が続いていることを著者は「21世紀の利子率革命」と呼ぶが、これは利潤を得られる投資機会がもはやなくなったことを意味している。利子率とは、長期的に見れば実物投資の利潤率を表すからである。

 

グローバリゼーションとは「中心」と「周辺」の組み替え作業である。

 

資本主義には「周辺」の存在が不可欠なので、途上国が成長し新興国に転じれば、新たな「周辺」をつくる必要がある。それが、アメリカで言えばサブプライム層であり、日本で言えば非正規社員であり、EUで言えばギリシャキプロスである。

 

16世紀以来、500年かけて、人類は国家・国民と資本の利害が一致するように資本主義を進化させてきましたが、21世紀のグローバリゼーションはその進化を逆転させようとしています。

 

資本が国境を越えられなかった1995年までは、国境の中に住む国民と資本の利害は一致していたので、資本主義と民主主義は衝突することがなかった。

 

1995年に国際資本が国境を越えてやすやすと移動するようになってから、アメリカは「電子・金融空間」を築き上げ、わずか十数年で140兆ドルを超えるマネーを創出した。

 

イタリア出身の歴史社会学者、ジョヴァンニ・アリギの議論では、資本が健全な投資先を失い、利潤が下がると金融拡大の局面に入っていくとされる。そして、それと同時にその国の覇権が終わるのだと言う。つまり、世界経済の覇権を取った国はいずれも、実物経済がうまくいかなくなって、金融化に走るわけである。

 

日本の一人あたりの粗鋼消費量がピークに達したのはのは1973年。また、日本の中小企業・非製造業の資本利潤率が9.3%でピークをつけたのも同年である。また、日本の合計特殊出生率が2.1を下回ったのは1974年。このように、あらゆる指標がこの付近で日本の「地理的・物的空間」の膨張が止まったことを示唆している。

 

資本主義の限界とは、資本の実物投資の利潤率が低下し、資本の拡大再生産ができなくなってしまうこと。そのように実物投資で稼げなくなると、投資家や資本家は土地や証券といった「電子・金融空間」にマネーを注ぎ込み、バブルを引き起こすことで、資本主義が正常に運転しているかのような偽装を図る。

 

貨幣数量説から導かれる「インフレ/デフレは貨幣現象である」というテーゼは、国民国家という閉じた経済の枠内でしか成立しない。

 

国際政治学者、ヘドリー・ブルが著書『国際社会論』言う「新中世主義」。ブルの言う「新中世的な普遍的政治秩序」とは、キリスト教的価値観に支配された中世の神聖ローマ帝国のように、共通の価値観に基づいて成立する普遍的な政治組織のもとで、複数の国家や地域の権威が重層的に折り重なっているような秩序のこと。

 

主権国家システムが支持されるのは、それが国民にも富を分配する機能を有するから。近代初期の絶対王政では資本と国家は一体化しているものの、まだ国民は登場していない。その後、市民革命を経て、資本主義と民主主義が一体化する。市民革命が起きてからは、主権在民の時代となり、国民が中産階級化していく。このように資本主義と民主主義が一体化したからこそ、主権国家システムは維持されてきた。

 

資本主義の始まりには、12~13世紀説、15~16世紀説、18世紀説がある。 12~13世紀説では利子の成立、15~16世紀説ではシュミットの言う「海賊資本主義」を国家が行ったこと、そして18世紀説では産業革命が、資本主義を発動させるメルクマールであるとされている。

 

ヴェーバーは『プロ倫』において、資本主義の倫理をプロテスタントの「禁欲」主義に求めている。しかし、「禁欲」した結果として蓄積された資本を、再投資によって新たな資本を生み出すために使うのが資本主義である。「禁欲=余剰を蕩尽しないこと」は、資本を再投資するためにこそ必要とされたのであろう。「禁欲」と「強欲」はコインの裏表なのである。

 

 

 

 

仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』(NHKブックス、2006年)

保守というのは字義どおりには現状を維持していこうとする方向の思想であるから、「現実」として通用しているものが革命などによって根底から動揺しているという危機感がない限り、「保守思想」が体系的な理論として結晶化することはあまりない。「保守」とは実際には「革新」に対する反作用として登場するものなので、実際には「保守」のほうが「革新」よりも新しいのである。

 

「疎外 Entfremdung」とは、若きマルクスがパリ滞在中に執筆した『経済学・哲学草稿』(1844)の第一草稿に属する「疎外された労働」に出てくる概念。マルクスにとって人間の類的本質は「労働」であるが、アダム・スミス以来の国民経済学が前提にしている資本主義的生産体制においては、労働者が自らの類的本質を投入して生み出したはずの「労働生産物=商品」が、労働者に対して「疎遠 fremd」なもの(=他人のもの)として現れてくる。具体的には、労働の結果が資本家という他者によって搾取されるということだ。

 

マルクス主義の丸抱え体質に反発するか、もしくは限界を感じていた構造主義以降に出てきたフランスの思想家・社会理論家たちは、すべてを説明できる絶対的な統一理論のようなものは目指さない、むしろそういうものを構築しようとする欲望に抵抗することを「共通項」にしていたようなところがある。『ポスト・モダンの条件』(1979)で、「ポストモダン」という言葉を流行らせた哲学者のリオタールは、そうしたマルクス主義のような絶対知が不在になった状況=「大きな物語の終焉」こそ、ポストモダン的な知の条件だとしている。